(椹木野衣著『日本・現代・美術』(新潮社、1998年)より引用。括弧内は筆者による補足)
宮城県美術館で開催されている高山登の個展に際して、「高山登のいまを語る」と題したシンポジウムが開催された。パネリストとして参加したのは、高山登本人に加え椹木野衣、高島直之の両美術評論家、そして本展企画者である宮城県美術館学芸員の和田浩一に、シンポジウムの司会進行が委ねられた。
高山登といえば大阪での日本万国博覧会を翌年に控えた1969年に、榎倉康二とともに椿近代画廊で二階と地下に分かれて個展を行い、タールによる鈍い光を放つ漆黒の枕木を構成的に配する作品で注目を浴びた。その後も枕木を用いたインスタレーションを数々展開し、その一貫した制作手法によって現代においても広く知られている作家である。枕木の使用についてはすでに本人の述懐が示しているように、東京藝術大学在学中の北海道旅行での炭坑街を巡った経験や、自身の出自に重ね合わせてそれを近代国家における負の遺産――時に枕木は「人柱」に喩えられた――とする言説も手伝って、素材がもつ重厚な物質性とともに情念的、暴力的な傾向をもつ作品として長らく理解されてきた。そのような確固たる評価が下されていると思われる高山の作品にとって、必ずしも現在にのみ焦点を絞るわけではないという和田の前置きがあったとしても、今回のシンポジウムは既存の評価について再考を促す機会となったように思われる。
まずシンポジウム冒頭においては、パネリストの椹木、高島の両氏ともにこれまでの作家との少なくない接点が確認された。高島は1976年頃から30年以上にわたり作品を見続けており、一方の椹木は自著『日本・現代・美術』を執筆するにあたり、高山に接触した経緯について語っていた。しかし、二人の作品理解はシンポジウムの最後まで共有されることはなかったといえる。むしろそれは、当初から大きな断絶をはらんでいたようにも思われた。
自身の長い作品受容の体験をもとに、1960-70年代における東京オリンピックや高度経済成長-停滞といった社会情勢の急激な変化、そしてもの派に代表される当時の美術状況を俯瞰していくことで、多角的な視点から作品への接近を試みようとする高島に対し、椹木はあくまでシンポジウム当日に見た展示会場での作品の印象に留まろうとしていた。今回の展示作品は椹木によって、重くもなく暗くもなく、むしろ軽く明るさを帯びたものとして、決定的に体験されてしまった。「明るさ」――シンポジウム途中それは「明快さ」、「あからさまさ」とも言い換えられた――や「静けさ」といった形容詞を用いる椹木にとって、高山の作品とは人工と自然といった対立項の境界が溶かされていくような、浸透作用をもちえたものであったといえる。そのような浸透性とは、例えば和田が本展カタログにおいて提示した「両義性」といった性質とは相反するものだろう。和田はカタログのなかで、モダニズムの還元主義的操作による純粋性への希求の結果としての枕木と、戦争やホロコーストといった近代が背負った負の記憶を象徴する枕木が、未分化なまま存在していることを作品評価の根幹とする姿勢をみせている。そこでは枕木が本来もつ物質性と相まって、対立項同士がダイナミズムをもちながらも危うい緊張関係のなかで共存しているといった、力動的な解釈を可能にさせる余地が残されているといえる。
しかし椹木による、動的ではなくあくまで静的な綜合としての作品理解は、シンポジウムを通じて一貫しており、作品を手元に少しずつ手繰り寄せようとする穏やかな語り口に反して最後まで揺らぐことはなかった。二項対立という単純構造ではなく、より複雑な融合の状態として椹木から次々と提起された、「歌声」や「詩」といった作品への隠喩は、その抽象性ゆえに他者との共有がどれほど可能であるかは一定の留保が必要としても、すでに硬直化した作品理解を今一度流動性の中に投げ込むような、つまり人柱やミイラに喩えられた作品を、まさしく蘇生させるための試みとして受け取るべきであろう。何より印象的だったのは、高山本人が他のパネリストによる発言を機に、発言者に寄り添うような語りを頻繁に試みていたことだった。ふとそれを思い出したような、「ミイラ」という発言を受けた後の学生時代のエジプトへの関心の吐露や、「多声性」に対して提示された作品制作における「orchestration」といった概念は、他者の解釈に触発されるかたちで不意に現出した作家本人の無意識の表れであり、作家がもつその柔軟さは筆者にとって本シンポジウムにおける何よりの収穫だったといえる。
2時間を超えるシンポジウム終了後、快晴の空が望める広大な中庭でのインスタレーションや、通常展示では使用しない地下倉庫で再制作された《地下動物園2010》、展示室での枕木やグランドピアノ、パイプベッドの他に、作家本人が撮影した映像―こちらを見つめる眼差しや、表面の揺らぐ水面―を用いた作品などを鑑賞する機会を得た。展覧会名に掲げられているように、300本を超える枕木を使用した美術館での大規模な個展は、高山のこれまで40年にわたる作家活動を総括する意味をもち得ているといえる。椹木が受けたあからさまであることや静けさといった展示の印象は、25年間教育者として指導し、1982年以降積極的な活動をその地で行っていたからこそ可能であった美術館に対する空間把握とおそらく無縁ではないだろうし――1982年には同美術館中庭でパフォーマンスを行っており、本展において当時の記録映像が公開されている――、またこれまでほとんど見る機会のなかった転写技法を用いたコラージュ作品《転写》による、1960年代当時の大量消費社会を象徴する雑誌から引用された図像や、転写という主体の介在を許さないオートマチックな手法とともに、その関連性が今後も論及されるべきであろう。
しかしながらそれでもやはり、かつて近代以降の日本の美術史を「閉ざされた円環」の中で語ろうとし、本論冒頭に引用したように自身の記憶と高山の作品を重ねる回想をしていた椹木にとって、つまり歴史を作り出そうとした当の本人によって、これまで作品に見出されていたはずの近代の歪みという歴史的状況が、なぜ今白紙化されなければならなかったのだろうか。それは、別の疑問へと置き換えるべきかもしれない。現代において、1960年代以降の日本の美術史とははたして疑いなく存在しているといえるのだろうか、と。本展に記録映像として出品されている《村Y》は、1973年当時高山が下宿していたアパートの空き地で行われた等間隔に並べられた枕木が端から順に倒れていくパフォーマンスである。映し出された身の丈を越える枕木が次々に倒れていく様子は、静寂であることでいっそう新鮮な躍動感に溢れている。そして、倒木の勢いが弱まり次に倒れるはずであった枕木が斜めに傾いたまま止まった瞬間、高山が自身の身体をまるで枕木のごとくそれに預けることで、静止していたはずの枕木が倒れる光景を私たちは目撃する。おそらくそれは、作家自身が枕木という物質に決定的な変貌を遂げようとした瞬間であったといえるだろう。西欧に追随することに無自覚的であった当時の美術状況に疑問を呈し、絵画から離反して1960年代後半からインスタレーションを先駆的に採用した高山とは、その意味で作家としての「私」の存在を自死させることによって、枕木でありながら、かつミイラでもあるような物質となり、半永久的に宙吊りのまま保存されることを目論んだ作家だといえる。高山の作品の本質が、クレジオのいうように人が造り出した歴史が終わった後も永遠に続く物質の世界にこそあるのだとしたら、二項対立の一部として枕木がもつ歴史的側面を語り続けてきた当の歴史こそが、今一度疑問に付されなければならないだろう。
たとえその地平が本シンポジウムでの椹木の呟きのような、あからさまで静けさしかもちえないのであったとしても。
(森啓輔)
高山登展 300本の枕木 呼吸する空間
2010年1月23日(土)-3月28日(日)
宮城県美術館
シンポジウム「高山登のいまを語る」
2010年3月14日(日)
宮城県美術館アートホール
http://www.pref.miyagi.jp/bijyuTu/mmoa/ja/exhibition/20100123-s01-01.html