2010年04月07日

「高山登展 300本の枕木 呼吸する空間」シンポジウム「高山登のいまを語る」

 祖母は、わたしの注意を促そうとしたのか、それ(タールが塗られた木の柱)を、線路工事で轢かれて死んだ人たちのお墓なのだと説明した。
(椹木野衣著『日本・現代・美術』(新潮社、1998年)より引用。括弧内は筆者による補足)

 宮城県美術館で開催されている高山登の個展に際して、「高山登のいまを語る」と題したシンポジウムが開催された。パネリストとして参加したのは、高山登本人に加え椹木野衣、高島直之の両美術評論家、そして本展企画者である宮城県美術館学芸員の和田浩一に、シンポジウムの司会進行が委ねられた。
 高山登といえば大阪での日本万国博覧会を翌年に控えた1969年に、榎倉康二とともに椿近代画廊で二階と地下に分かれて個展を行い、タールによる鈍い光を放つ漆黒の枕木を構成的に配する作品で注目を浴びた。その後も枕木を用いたインスタレーションを数々展開し、その一貫した制作手法によって現代においても広く知られている作家である。枕木の使用についてはすでに本人の述懐が示しているように、東京藝術大学在学中の北海道旅行での炭坑街を巡った経験や、自身の出自に重ね合わせてそれを近代国家における負の遺産――時に枕木は「人柱」に喩えられた――とする言説も手伝って、素材がもつ重厚な物質性とともに情念的、暴力的な傾向をもつ作品として長らく理解されてきた。そのような確固たる評価が下されていると思われる高山の作品にとって、必ずしも現在にのみ焦点を絞るわけではないという和田の前置きがあったとしても、今回のシンポジウムは既存の評価について再考を促す機会となったように思われる。

 まずシンポジウム冒頭においては、パネリストの椹木、高島の両氏ともにこれまでの作家との少なくない接点が確認された。高島は1976年頃から30年以上にわたり作品を見続けており、一方の椹木は自著『日本・現代・美術』を執筆するにあたり、高山に接触した経緯について語っていた。しかし、二人の作品理解はシンポジウムの最後まで共有されることはなかったといえる。むしろそれは、当初から大きな断絶をはらんでいたようにも思われた。
 自身の長い作品受容の体験をもとに、1960-70年代における東京オリンピックや高度経済成長-停滞といった社会情勢の急激な変化、そしてもの派に代表される当時の美術状況を俯瞰していくことで、多角的な視点から作品への接近を試みようとする高島に対し、椹木はあくまでシンポジウム当日に見た展示会場での作品の印象に留まろうとしていた。今回の展示作品は椹木によって、重くもなく暗くもなく、むしろ軽く明るさを帯びたものとして、決定的に体験されてしまった。「明るさ」――シンポジウム途中それは「明快さ」、「あからさまさ」とも言い換えられた――や「静けさ」といった形容詞を用いる椹木にとって、高山の作品とは人工と自然といった対立項の境界が溶かされていくような、浸透作用をもちえたものであったといえる。そのような浸透性とは、例えば和田が本展カタログにおいて提示した「両義性」といった性質とは相反するものだろう。和田はカタログのなかで、モダニズムの還元主義的操作による純粋性への希求の結果としての枕木と、戦争やホロコーストといった近代が背負った負の記憶を象徴する枕木が、未分化なまま存在していることを作品評価の根幹とする姿勢をみせている。そこでは枕木が本来もつ物質性と相まって、対立項同士がダイナミズムをもちながらも危うい緊張関係のなかで共存しているといった、力動的な解釈を可能にさせる余地が残されているといえる。
 しかし椹木による、動的ではなくあくまで静的な綜合としての作品理解は、シンポジウムを通じて一貫しており、作品を手元に少しずつ手繰り寄せようとする穏やかな語り口に反して最後まで揺らぐことはなかった。二項対立という単純構造ではなく、より複雑な融合の状態として椹木から次々と提起された、「歌声」や「詩」といった作品への隠喩は、その抽象性ゆえに他者との共有がどれほど可能であるかは一定の留保が必要としても、すでに硬直化した作品理解を今一度流動性の中に投げ込むような、つまり人柱やミイラに喩えられた作品を、まさしく蘇生させるための試みとして受け取るべきであろう。何より印象的だったのは、高山本人が他のパネリストによる発言を機に、発言者に寄り添うような語りを頻繁に試みていたことだった。ふとそれを思い出したような、「ミイラ」という発言を受けた後の学生時代のエジプトへの関心の吐露や、「多声性」に対して提示された作品制作における「orchestration」といった概念は、他者の解釈に触発されるかたちで不意に現出した作家本人の無意識の表れであり、作家がもつその柔軟さは筆者にとって本シンポジウムにおける何よりの収穫だったといえる。

 2時間を超えるシンポジウム終了後、快晴の空が望める広大な中庭でのインスタレーションや、通常展示では使用しない地下倉庫で再制作された《地下動物園2010》、展示室での枕木やグランドピアノ、パイプベッドの他に、作家本人が撮影した映像―こちらを見つめる眼差しや、表面の揺らぐ水面―を用いた作品などを鑑賞する機会を得た。展覧会名に掲げられているように、300本を超える枕木を使用した美術館での大規模な個展は、高山のこれまで40年にわたる作家活動を総括する意味をもち得ているといえる。椹木が受けたあからさまであることや静けさといった展示の印象は、25年間教育者として指導し、1982年以降積極的な活動をその地で行っていたからこそ可能であった美術館に対する空間把握とおそらく無縁ではないだろうし――1982年には同美術館中庭でパフォーマンスを行っており、本展において当時の記録映像が公開されている――、またこれまでほとんど見る機会のなかった転写技法を用いたコラージュ作品《転写》による、1960年代当時の大量消費社会を象徴する雑誌から引用された図像や、転写という主体の介在を許さないオートマチックな手法とともに、その関連性が今後も論及されるべきであろう。
 しかしながらそれでもやはり、かつて近代以降の日本の美術史を「閉ざされた円環」の中で語ろうとし、本論冒頭に引用したように自身の記憶と高山の作品を重ねる回想をしていた椹木にとって、つまり歴史を作り出そうとした当の本人によって、これまで作品に見出されていたはずの近代の歪みという歴史的状況が、なぜ今白紙化されなければならなかったのだろうか。それは、別の疑問へと置き換えるべきかもしれない。現代において、1960年代以降の日本の美術史とははたして疑いなく存在しているといえるのだろうか、と。本展に記録映像として出品されている《村Y》は、1973年当時高山が下宿していたアパートの空き地で行われた等間隔に並べられた枕木が端から順に倒れていくパフォーマンスである。映し出された身の丈を越える枕木が次々に倒れていく様子は、静寂であることでいっそう新鮮な躍動感に溢れている。そして、倒木の勢いが弱まり次に倒れるはずであった枕木が斜めに傾いたまま止まった瞬間、高山が自身の身体をまるで枕木のごとくそれに預けることで、静止していたはずの枕木が倒れる光景を私たちは目撃する。おそらくそれは、作家自身が枕木という物質に決定的な変貌を遂げようとした瞬間であったといえるだろう。西欧に追随することに無自覚的であった当時の美術状況に疑問を呈し、絵画から離反して1960年代後半からインスタレーションを先駆的に採用した高山とは、その意味で作家としての「私」の存在を自死させることによって、枕木でありながら、かつミイラでもあるような物質となり、半永久的に宙吊りのまま保存されることを目論んだ作家だといえる。高山の作品の本質が、クレジオのいうように人が造り出した歴史が終わった後も永遠に続く物質の世界にこそあるのだとしたら、二項対立の一部として枕木がもつ歴史的側面を語り続けてきた当の歴史こそが、今一度疑問に付されなければならないだろう。
 たとえその地平が本シンポジウムでの椹木の呟きのような、あからさまで静けさしかもちえないのであったとしても。

(森啓輔)


高山登展 300本の枕木 呼吸する空間
2010年1月23日(土)-3月28日(日)
宮城県美術館

シンポジウム「高山登のいまを語る」
2010年3月14日(日)
宮城県美術館アートホール
http://www.pref.miyagi.jp/bijyuTu/mmoa/ja/exhibition/20100123-s01-01.html
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2010年01月07日

「Beuys in Japan:ボイスがいた8日間」 国際シンポジウム「21世紀にボイスを召還せよ!」 (3)

第二部 パネルディスカッション2 「アクションは生きているか? 」
モデレーター:木幡和枝
パネリスト:小田マサノリ/イルコモンズ、白川昌生、椿昇

椿昇は、地球環境問題の危機と日本での文化活動における補助金づけを廃止し、あたらしい資金提供の可能性、たとえばマイクロファイナンスなどを作ることを提案した。
白川はドイツでの過去の体験、日本との美術サポート体制の違い帰国後の群馬という場所が、都会などから分離しているように見えて、実際は世界の先端、矛盾とトポロジカルにつながっていることを発見したことと、そこでの活動を話した。
イルコモンズは美術家をやめたきっかけの水戸芸術館での「殺すな」のデモンストレーション、その他彼のストリートでの活動を話し、最後にすべてのひとはアクティヴィストだというプラカードを掲げていた。

各自の発表のあと意見がかわされたが、基本的にはそれぞれが話していることが繰り返し主張された印象だった。それぞれがボイスから受け取った考えを自分なりに継続させているということだ。椿は環境問題の危機などを訴えていたが、その根拠はMITでの滞在制作の経験からきていた。また日本における美術のありかたの不安定さ、美術大学制度の問題、学生の就職などを挙げ、市民が美術を支援できる体制をつくりたいと話していた。またインターネット上にでている彼の国際的作品、活動を動画で紹介していた。

イルコモンズは美術と政治の関係性を強調し、ストリートまたインターネットの動画配信を通じてラディカルに活動を展開していることを提示していた。横浜トリエンナーレ、水戸芸術館、今回の横浜国際映像祭に出品している作品、アクション記録を画像で出していた。

白川は、これらとは正反対に地域で地味に持続してやっている活動の話をしたが、すでに時間になった。最後に無人駅での行為の画像を1枚見せた。メディアにもほとんど出ない地域の活動や人、もの、生き物との関係から逆に世界の問題がみえてくる。たとえば六合村の山奥でであった村人のひとりは、70年代にドイツの炭坑で働いていた。六合村の山奥には日本鋼管の鉄鉱石の採掘場があり、日本は明治時代以来、採掘をしていた。ここの鉄は兵器生産に使われていたが、やがて中国から鉱物を輸入することになると廃坑になる。そこでこの村人は北海道の炭坑で働くが、60年代終わりにここも整理され失業した。その後、ドイツの炭坑で求人があると会社から知らされドイツにいく。このドイツの場所が90年代には世界遺産になり、芸術センターとして裁量されている場所でもある。群馬の山奥の村人と世界のグローバル化していくながれが表面化するかたちでトポロジカルに現れていることは重要だと白川は判断した。そのため群馬という場所を、制作対象として選ぶことを決めた。
これら地域のことはボイスとどうつながるのか…ボイスはアイルランドのジョイスにむけて大きなデッサンシリーズを作っているが、これは世界的に有名な作家,作品にたいするボイスのこだわりだ。

このシンポジウムに出ていて、ふと思い出したことがあるので最後にそれを書いておこう。ボイスが注目される以前は、ベルリンの作家、ヴォルフ・フォステルが注目を浴びていた。ボイスがはじめてフルクサスに参加したブポタルのアクションでは、フォステルは鉄道を止めたことがあった。かれはソ連のチェコ侵略やユダヤ人殺害の強制収容所、反資本主義的な作品、ビデオ映像を取り付けて町を走る不気味な展示トラックなど、精力的に発表していた。まさに美術と政治を直結する、イルコモンズ氏の考えているようなアクティヴィズム的作家であった。しかし、なぜか市場は次第にボイスへと傾いていく。ほとんどフォステルの存在などは忘却していったようだ。ボイス以上にアクティブで挑発的で政治的だった作家が消えてしまった。その分ボイスが持ち上げられている。
シンポジウムの流れを見ながら複雑な気持ちになっていた。本来のアクティヴィストは今や忘却され、ユーラシアやシュタイナー的発言をしていたボイスが残ってしまった事実をドイツの現代美術はどう考えているのだろうか、と思った。たしかにボイスはスターでカリスマだったのだが…いろいろと疑問が残るシンポジウムであった。


(白川昌生)


Beuys in Japan:ボイスがいた8日間
2009年10月31日(土)〜2010年 1月24日(日)
水戸芸術館現代美術ギャラリー

国際シンポジウム「21世紀にボイスを召還せよ!」
2009年11月15日(日)
水戸芸術館コンサートホールATM
http://www.arttowermito.or.jp/art/modules/tinyd0/index.php?id=10
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2010年01月05日

「Beuys in Japan:ボイスがいた8日間」 国際シンポジウム「21世紀にボイスを召還せよ!」 (2)

第二部 パネルディスカッション 1 「消費社会とユートピア」
モデレーター:四方幸子
パネリスト:仲正昌樹、毛利嘉孝、山本和弘

1部のあとに質問のやり取りの時間が少しあったが、ほとんど質問がなかった。会場にいた多くの人は大半が30−50代くらいの人が多く,20代の人は少なかった。何を聞いていいのか分からない、というのが会場の雰囲気から感じられた。

仲正昌樹氏はドイツロマン主義から20世紀はじめまでの美学のおおまかな流れを、大学の講義のように丁寧に解説したが、美術と社会、政治、革命への関係の入り口は理解できたが、そこで時間になり終わり。

山本和弘氏はボイスのユートピアについて話したが、ノヴァーリスの考えの発展したものとしている点では仲正氏と重なる所があった。きちんと文献をおさえて話をする点は専門的であったが、現実のボイスの活動がどうユートピアとつながるのか不明だった。

毛利嘉孝氏はボイスとアンディ・ウォーホルを比較しながら、70年代以降の高度消費社会におけるスター、カリスマ作家の社会的イメージのあり方を問いかけていた。毛利氏の発表が一番興味深かった。消費社会とネット社会の到来で誰もが芸術家になれる状況に社会がなってきた事実をふまえながら、そういう消費経済とは違うありかた、語り方としてのボイスの活動の可能性を探れないのかと問いかけていた。

このあとフリートークになったが、司会の四方幸子氏の解説がいまいちで混乱気味のものになり完全な未消化状態で終わった。時間も少なかったし、基調講演をした2人のドイツ人に意見を求めても、噛み合わなくて実りが少ない会話になっていた。

ボイスの考え、活動についてどう判断していけば良いのか、このシンポジウムでは取り付けるキーワードがほとんど見つからないし、時間がなさすぎたし、せっかくドイツから来た人との議論もなかった。ボイスがいないので不在の人をおいて、あれやこれやと言えるのか、どうも不明快な流れであった。ルドルフ・シュタイナーの問題は意識的に避けられていた。というのも日本ではシュタイナー傾倒者がいてボイスをそこからしか評価、見ないという問題があるから、ということらしいが、あえて正面から切り込んでいく姿勢、力には欠けていたのが残念。シュタイナー問題とボイスをどう分離、関係させておくかという提案がきちんとあっても良かったと思う。

(白川昌生)


Beuys in Japan:ボイスがいた8日間
2009年10月31日(土)〜2010年 1月24日(日)
水戸芸術館現代美術ギャラリー

国際シンポジウム「21世紀にボイスを召還せよ!」
2009年11月15日(日)
水戸芸術館コンサートホールATM
http://www.arttowermito.or.jp/art/modules/tinyd0/index.php?id=10
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2009年12月20日

「Beuys in Japan:ボイスがいた8日間」 国際シンポジウム「21世紀にボイスを召還せよ!」 (1)

BeuysinJapan.jpg

11月15日に、水戸の芸術館でボイス展シンポジウムが行われた。
1部、2部、3部の3つで構成されていたが、13時から18時までの時間ではとても足りない感じで、非常に切り詰めた不満足なシンポジウムに終わったといえる。参加していた関係者、作家はそれぞれに興味深い発表したのだが、あまりに時間がなく議論も出来ない状態で進行したのが残念であった。

第一部 基調講演
レネ・ブロック/オイゲン・ブルーメ
 
レネ・ブロックは70年代からボイスをバックアップしたベルリンの画廊として有名である。74年のボイスのNYでのアクション「私はアメリカが好き、アメリカも私が好き」の時代的な前後関係の動きを紹介していた。ベルリンで72年にブロック画廊がオープンしたときのアクション、そして78年の画廊を閉める最後のアクション、がそれぞれアメリカでのアクションとの関係の中で話された。個人的に私はデュッセルドルフの美術大学の学生であったときに、ボイスのアクションを大学の講堂でみている。
ブロックの証言では、70年代の学生運動に共感する形でボイスは、自らも政治的な領域へと踏み込んでいったようだ。はじめからボイスは政治的作家であったのではない、と言っていた。
72年のアクションはカールマルクス広場でのデモのあとのゴミをブロック画廊につみあげ、インターナショナルの音楽をかけ、直接民主主義の図をプリントしたプラスチックの袋を一緒に展示した。これはあとになって白い木箱のガラスケースにすべておさめられ、美術館に今は展示されている。
74年がNYでのコヨーテを使ったアクション、78年がデュッセルドルフ美術大学でジョージ・マチュナスのための慰霊のアクションで、ナム・ジュン・パイクと一緒におこなったもの。ただしこの時は75年のときの裁判で、ボイスは大学内へ入ることを禁止されていた。それをブロック画廊は、画廊が講堂を借りて講演をおこなうということにして、そこにボイスを呼ぶというながれで法律的な部分を乗り越えた。数年ぶりに美術大学へボイスがきたということで学生は興奮していた。私はその時に会場にいたので様子は知っている。

こうしたボイスのアクションの流れをこまかく説明しながら、ブロック画廊でのボイスの活動も紹介していた。これはまさに作家、画廊の見事な共同戦線による成功例としてみることが出来る。

78年に閉鎖したベルリンのブロック画廊のさまざまな部分…たとえば画廊の壁であったはがれた漆喰、使われていた事務用の机、引き出し、ごみ、画廊の庭に植えてあったジャガイモなどなどはすべての素材が保存され、その後にボイスが彫刻的作品をつくるときにそれぞれが使用されている。これらの作品はNYの大回顧展で展示された。過去の記憶、物質をボイスはこれらの廃物を利用して作品化した・・・ベンヤミン的な手法といえるかも知れない。

オイゲン・ブルーメ氏はベルリンバンホフ美術館で去年行われたボイスの大回顧展のことを、画像を交えて話をした。
ボイスの神話化にたいしてより客観的な資料、画像、彫刻、デッサンを展示してボイスの歩みを再構成する試みでもあったという。ボイスについて書かれたことよりも、ボイス自身が語ったことを中心に置きながら、つまり多くのビデオ画像を使いながらボイスがなにを伝えようとしていたかを探る試みであった。
これは、はじめてのまとまった回顧展であり、主要な彫刻作品はすべて展示されていた。
多くのドイツ人の観客、若い世代から老年までがひっきりなしに訪れ、列をなして美術館の外に並んでいた。20世紀のドイツ美術を世界に代表する作家にふさわしい展覧会だったといえる。

これら2人の基調講演を聞いていたが、日本でのボイス、美術のありかたと、ドイツでのそれにはかなりの違いがあるように見受けられた。それは社会と美術の関係が当然のものとして議論、作品に入り込んでいるドイツの場合では、政治、社会と美術は直列的につながっており、それが常識とされている。芸術と呼ばれる領域がどうなるべきなのかが、近代美術以降の中で商業化していく過程をふまえ、どう対抗すべきなのかが問われる。
これはアメリカ美術対ヨーロッパ美術というフレームを考える以上に、ヨーロッパがこれまで体験した2つの世界大戦の経験が、芸術はいかにあるべきかという姿勢、価値、役割を形成したとも言えよう。
ボイスのみならず、ジグマー・ポルケ、ゲルハルト・リヒター、ギュンター・ウッカー、ブリンキー・パレルモ、トーマス・シュトゥルート、ベッヒャー夫妻などをみても物質、世界、社会の関係を単純に造形へと還元することで満足はしていない。日本のフォーマリスト的な耽美主義とは対局にある世界がドイツでは生まれている。
さらにはキリスト教、芸術とそれらの世俗化の問題も意識化されている。日本では宗教的世界は触れないことになってしまっているが、これもドイツでは意識化、対象化されている。
世俗化とともに浮かぶ上がってくる領域は哲学的問題、思想的問題がある。すでに19世紀末より、ヨーロッパはこの思想の世俗化をどうとらえるかが大きな問題になっており、ボイスの場合もシュタイナーなどの思想がこれに対応している。マルセル・デュシャンの錬金術の問題も同様である。美術がはらむ象徴的表現の問題は、文化の深層と未来のイメージの形成とも絡んでくる以上、ボイスはアメリカ的なモダンアートではないヨーロッパタイプのアートの世界を掘り起こしたという点でも評価されるべきだろう。

最後に気になったのは、ボイスにおいて日本での展示、来日は、はたして意味を持ったのかどうかである。今回の基調講演では日本のことに全く触れていなかった。現実にボイスが1000本の樫のプロジェクトを行うにあたり、資金援助を理由に西武美術館での展示をしたということは聞いていたが、ボイスにとって重要な意味――たとえばアイルランドでの彼の活動などを見ていると、ヨーロッパ中心のようにも見える気がした。72年のベルリンでのアクションにかかわったのは私の知っている日本人で、ボイスの学生だった。私が79年にボイスにインタビューした時「資本主義の日本には行く気はない」と断言していた。
ボイスを神話化してまっていた日本の80年代の様子をみるにつけ、この辺りの落差を考えざるを得ないし、またドイツ側における日本の見え方も知りたい気がした。

(白川昌生)


Beuys in Japan:ボイスがいた8日間
2009年10月31日(土)〜2010年 1月24日(日)
水戸芸術館現代美術ギャラリー

国際シンポジウム「21世紀にボイスを召還せよ!」
2009年11月15日(日)
水戸芸術館コンサートホールATM
http://www.arttowermito.or.jp/art/modules/tinyd0/index.php?id=10
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2009年10月07日

「―彫刻の風景― 道草」ギャラリートーク

 上野タウンアートミュージアム(UTM)は東京藝術大学と台東区の共催によるアート・プロジェクトである。9月から11月にかけて、街中でさまざまな展示、イベント、シンポジウムを開き、地域活性化と教育活動の普及を狙いとする。この一環として行われるのが、藝大彫刻科の学生による展示シリーズ「彫刻の風景」だ。「路地」(2007年)、「交差点」(2008年)に続き、今年のテーマは「道草」。さらに「内から外へ」というコンセプトを掲げ、上野の森美術館ギャラリーと、上野桜木にある旧吉田屋酒店 (下町風俗資料館付設展示場)の2か所で、2期に分かれての展示を行った。条件のまったく異なる環境下で、彫刻はどのような在り方を示すのか。そして去る9月19日、第2期の会場である旧吉田屋酒店で、出品作家らによるトーク・イベントが開催された。

 参加者は彫刻科修士課程在籍の片村信、小塚照己、鈴木貴雄、武内優記、龍野大輔、彫刻科の准教授である林武史。そして第三者的な立場から批評を下す役割として、外部から招聘されたゲストが美術評論の山本誰である。実は筆者も昨年の「交差点」展でゲスト参加したことがあり、山本はweb complexにそのときのレポートを寄稿している。今回山本がゲストに呼ばれたのは、そのレポートに興味を持った彫刻科の学生が依頼をした、という経緯があったようだ。
 一年前に同じ立ち位置を経験した身としては、かつての自分を反省的に振り返る機会でもあり、彼らのトークを客観的に観覧することができたかというと、何とも心もとない。そんな中、いくらかの既視感もおぼえつつ改めて感じたのは「作品を見ることと語ること」の難しさであり、決して軽視できないその行為がいつでも立ち返るべき基点であることを再確認させられた。
 作り手を目の前に、彼らが生み出したものについて何かを話すということ。それは対話の空間に特別な磁場を帯びさせ、作品と受け手、作り手と受け手の関係性を危うく揺るがせる。加えて、今回の展示作家はまだ若く、発表の機会もまだそれほどない未知数の存在だ。トーク中の山本の様子を見ていても、その場の空気を読みながら手探りで言葉を繰り出す印象があり、作家たちとの遣り取りにはいくらかの齟齬や未消化の感が残った。とはいえ、あらかじめ共犯的な関係性が出来上がり、前提とすべき文脈が確保されているようなトークを見るよりも、そこにはよりリアルなコミュニケーション/ディスコミュニケーションの現場がある。拡散化が進む「現代美術」の状況をかえりみれば、この縁がなければ出会わなかったかもしれない双方の接触は、それ自体で十分に興味深い。

 具体的なトーク内容に触れる前に、展示の様子について簡単に触れておこう。 旧吉田屋酒店は明治43年に建てられた木造建築で、現在は下町風俗資料館展示場として酒屋商に関する資料などが展示されている。5人の作品が設置されるのは酒店のなかではなく、建物をバックにした敷地内だ。地面はごく普通のアスファルトで、敷地を囲む植垣のすぐ向こうには道路と住宅街という日常の空間が接続している。
 敷地内に入ってまず目に入るのは、ガラスケースに入った龍野大輔の作品。大理石の面からミルククラウン状のかたちを彫り出し、ちょうど容器を満たす液体のようにケースと一体化している。左手には、垂直の突起が峡谷的な形態を刻む鈴木貴雄の彫刻。その奥に、祠の内部にキツネの像をおさめた小塚照己の作品が並ぶ。建物との絡みを見せるのは片村信と武内優記で、前者は正面入口のそばにバイオモルフィックな石彫を設置し、後者は金箔や金紙をほどこしたダンボールを軒下いっぱいに積み上げている。時の厚みを感じさせる建築物と拮抗し、なおかつ鑑賞者の視線を求心的に引きつける展示空間を生み出すのはかなり難しい課題となるだろうが、直置きされた片村の作品が地面への注意力を喚起し、武内の使用した金箔が吉田屋の紋章の金色と呼応するなど、とっかかりのポイントは、いくらか見受けられた。

 トークでは作家による自作説明のあと、山本や会場からの質問が繰り広げられた。作家は作品のテーマを中心に語るのに対し、見る側からはより制作の動機に迫る質問、あるいは作品が最終的にとった形態の必然性を問う意見が飛び出る。 たとえば前回の「交差点」展の出品者である井浦千砂が武内に対し、「素材は段ボールじゃないとダメだったのか?」と問う場面があった。金地に仕立てられた段ボールが表層的な視覚のエフェクトに留まるのであれば、異質な要素を組み合わせたトリッキーさばかりが強調され、段ボールという素材を使用する必然性は際どいものとなるだろう。また片村の石彫に対し、山本はその滑らかなカーブをもつ形体を「牛タン」に形容する。ここには作品の造形性を(まさに食べ物を味わうように)咀嚼するひとつの受容の在り方が示されている。と同時に、一見すると抽象彫刻的な様相をまとった作品がダイレクトに牛タンを模しているように見えてしまうことに対しての、批判的観点を読み取れなくもない。
 制作の動機や作品の成り立ちの必然性を問う意見は、作家が突き詰められずにいた曖昧な問題点を浮上させ、意識化へと向かわせる契機となるだろう。感想や質問のなかにも、批評の萌芽はあらわれている。ただ、こういった指摘をその場で共有できる問題系に発展させるには、作家の応答がいまひとつ不十分であり、司会・進行と評者を一人二役的にこなさなければならない山本の立ち位置も厳しかったようだ。
 もうひとつ、実際に作品が目の前にあるという現実が(作家にとって)心理的な抵抗として作用し、「語りづらさ」につながっているとも考えられるだろう。あるいは「実物がそこにある」という強烈な現実に引きずられ、言葉で繰り返し説明することの動機が立ち上げにくくなっているのかもしれない。時間的なものにせよ心理的なものにせよ、作品との距離を置くことでこうした状況は次第に変化していくのではないか。山本は作家もまた自作について説明する責任があることを主張していたが、作品が作家にとってさえ「よそよそしい」ものと映るとき、それは初めて作品との距離をとることができた証しとして考えられるのである。
 質問の遣り取りが終ったあと、山本はジャコメッティの言葉を織り交ぜつつ自身の彫刻観を述べ、トークを締めた。個人的にいちばん印象深かったのは、実作者でもある山本が、展示作家たちに安易な「制作者同士の共感」を示さず、最後に到るまで「他者」としての立ち位置を貫き通していたことだった。

(中島水緒)

上野タウンアートミュージアム
「―彫刻の風景― 道草」
第一期 2009 年9 月8 日(火) -13 日(日)
    上野の森美術館ギャラリー
第2期 2009 年9 月15 日(火) -27 日(日)
    下町風俗資料館付設展示場 旧吉田屋酒店

ギャラリートーク
2009 年9 月19 日(土) 
下町風俗資料館付設展示場 旧吉田屋酒店
http://u-t-m.jp/modules/sculpture/index.php?content_id=2


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